II.妻に手渡された一冊の聖書から・・・ - 岡田健一 - 2001年9月

 私がクリスチャンになったのは、仕事でアメリカに来てその後結婚してからです。それは結婚したときに妻が持ってきた聖書がきっかけでした。彼女はその頃まだ洗礼は受けていませんでしたがすでに神を信じていました。いつも夜になると一人で本を読み始めるので最初は不思議に思っていましたが、ある時聞いてみると聖書だと言いました。そして私のために日本から持ってきたと言って1冊の聖書を私にくれました。 

 その頃私はクリスチャンではなくまた宗教に関わりたいとも思っていませんでした。しかし、あまりに熱心に読んでいるし、話もあわさないといけないと思い、私も最初から読んでみようかと言う気持ちになりました。私は、中学高校とカトリック系の学校に通っており、聖書も少し読まされたこともあり、また修道士の先生方のストイックな生活態度に畏敬の念さえ覚えていたので、キリスト教に対しては潔く崇高であるというイメージはありました。ただキリスト教というものは自分にとっては荷が重過ぎると感じていました。けれどもせっかくだから聖書を知っておくのも悪くないだろうという気持ちで読み始めました。 

 当時は出張が多く飛行機の中や出張先のホテルで読む時間がありましたのでそこでよく読んでいました。またハーベストタイムもこちらで放送していましたので聖書理解の助けになると思い、出張の無いときは一緒に家で見ていました。そのうち、妻を導いた方がロン松田先生と知り合いでガーデナの教会を紹介してくださり、妻に付き添うような形で 日語部に出席するようになりました。 

 最初は深い意味もわからず、聖書もただ面白い物語のように感じて読んでいました。時々分けのわからない名前が続くのには閉口しましたが、とにかく読もうと思いました。しばらく読み進んでゆくと、なにか今まで心の中にあった重苦しいものが解決されるのではないかというような気がしてきました。その重苦しいものとは、人間は何の為にこのむなしい世に生きているのかと言う解決されないまま心に残っている疑問でした。結婚する前は「たとえば仕事で成功しても定年を迎える。やがて健康も衰えて死んでゆく。その死と言うものがテレビのスイッチが切られるようにプツンと切れて後は何も無い画面が残っているようなものとしたらなんとむなしいことだろう。」と考えていました。すると、非常に生きるということが何の意味ももたないような感覚に襲われ、心の中に大きな穴があいたような気がしてしばらくの間何もやる気が出ないほど落ち込んだ時期がありました。しかし、いくら考えても答えは得られず、仕方が無いのでとにかくそんなことは忘れて、もっと面白おかしく生きた方がよいと自分に言い聞かせ、お酒を浴びるように飲んでは友人たちと朝まで騒ぐこともしばしばでした。 

 それでも心の奥底には重く石のようにそのむなしい思いは残っていました。その思いが聖書を読むに従って何か和らいでゆくような感じがしてきたのです。今まで、仕事と言うものが自分の人生にとって目的のように思って、それが心の苦しみの原因となっていました。しかしそれは単なる人生を生きるための手段であって、目的はもっと他にあると思えるようになってきたのです。天と地を創られた神様がおられ私たちを哀れんでキリストにより永遠の命を与えてくださり、自分の命が肉体の死によって終わるものではないということがわかってきたとき、何事も人生においてむなしいものは一つも無く神が計画をして一つ一つに意味をもたせていると考えられるようになり、今まで重苦しく心に残っていた思いが取り去られて行きました。そして神様が私に永遠に生きる命を与えてくださるなら、その命に預かりたいと思うようになりました。神山先生から「奥さんと一緒に洗礼を受けませんか」と言われた時はまだ早すぎると思いましたが、自分の進む道は聖書の中にあることは間違いないと感じていましたので1990年4月15日、洗礼を受けることにしました。 

 その後、私の人生にもいくつかの転機がありましたが、その都度神様は聖書のみ言葉や祈りを通して導きを与えてくださいました。これからも天に希望を置いて歩んでいきたいと思っています。 

『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』(箴言3:6)