私が初めてイエス様のことを聞いたのは短大2年の時、当時こちらに留学していたお友達を訪問して3週間滞在した時でした。彼女の計らいでウエストコビナに住むある宣教師ご夫妻のおうちに泊めてもらうことになりました。このご夫妻は35年間の南米での伝道活動を終えリタイアされたばかりとのことでした。そのご夫妻に初めて教会へ連れて行ってもらったのです。 教会は私がそれまでイメージしていた静かで厳かな雰囲気とは違い、みんな笑顔で楽しい音楽に合わせて歌っていました。滞在中いろいろな人が初対面の、英語が分からない私に親切にしてくれました。3週間はあっという間に過ぎ、私は日本に帰国しました。帰国後、このご夫妻は手紙や小冊子などを送ってくれるようになりました。そこには聖書やイエス様のことが書いてありました。無神論者だった私でしたが、せっかくアメリカから送ってもらったので目を通すようになってはいたものの、その頃は、自分の人生は自分の能力とか努力で切り開くものと思っていました。 私は卒業し地元の銀行に就職しましたが、いろいろとつらいことが多く1年もしない内に辞めたくなり、日に日に学生の時に行ったアメリカにまた行きたいと思うようになりました。両親に銀行を辞めてアメリカに留学したいと告げましたが即反対されました。特に母親には大反対されましたが、アメリカに行きたいという思いを抑えることができませんでした。3年かかってお金を貯め、銀行を辞めた私は当初あのご夫妻が住むロスに留学先を探しましたが資金の関係で、アラバマ州にある大学付属の英語学校に2年の予定で行くことにしました。そしてアラバマ州へ直行する前に3年半もの間手紙を書き続けてくれたあのご夫妻に一目会ってお礼を言ってから行くことにし、また2週間ほど滞在させてもらう事になりました。 私は3年間夢に見たアメリカにまた戻ってきました。3年半前に会った人たちにも再会でき、初めの数日は楽しいことばかりでした。ただ私がもうすぐアラバマ州へ行くことになっていますと告げると人々は南部の人種差別の歴史から治安の心配をしてくれ、アメリカはどこも同じようなもの位に考えていた当時の私は、少しづつ不安になっていきました。あと数日でなじみのあるロスを発って全然知る人のいない所に行くのかと思うとしだいに心細くなっていきました。 その間ご夫妻は私を教会に連れて行ってくれました。英語の聞き取りがあまりできない私のためにご夫妻の知人がオレンジカウンティーから訪れ日本人フェローシップに連れて行ってくれました。そこでジョン長谷川さんと奥様に会いました。長谷川さんにイエス様を受け入れませんかと聞かれた頃には、クリスチャンになってもいいかなあと思い始めていましたが、「私はこれまで会ってきた信者の人達とは違ってすごく自己中心的で、聖書もまだ十分に理解できていないのでまだ早いと思います」というような返事をしました。そんな私に長谷川さんは「ただイエス様を救い主と心で信じて受け取るだけでいいのですよ」と言われ、イエス様を救い主として受け入れる決心をしました。 3年半の間ご夫妻の送ってくれた聖書に関するものを読んでいたので、ある程度キリスト教の知識はありましたが、まさかこの2週間そこそこの滞在中に自分がイエス様を救い主として受け入れることになるとは思いもしませんでした。3日後コロナデルマーという海岸で受洗しました。ロス出発前心細くなっていた私にある人が「イエス様はどこに行ってもおられる方だよ」と教えてくれました。 出発の前日、学校に連絡したところ空港に迎えに来てくれるはずだったボランティア学生が高熱を出して来られなくなったとのこと。ご夫妻の知り合いのそのまた知り合いでアラバマに住んでいる人が代わりに空港まで迎えに来てくださる事になりました。空港で待っていて下さったのは2人の中年のご婦人でした。アラバマでの生活が始まってすぐにこのお二人が私を教会に連れて行ってくれるようになりました。また大学が休暇に入って寮が閉鎖するたびに招いてもらいました。 アラバマ州に着いてすぐ、2人のルームメイトとの寮生活が始まりました。一人はクリスチャンの黒人の女の子で、私がクリスチャンになったばかりだと告げると大学のクリスチャン学生の集まりに連れて行ってくれました。学校を卒業するまでの3年半の間その集まりを通して神様は何人ものクリスチャンの友達を与えて下さいました。アラバマ州での留学生活はそれまで体験した事もなかった貧乏学生の生活でしたが、それは同時にイエス様に頼る生活となったのでした。 もうひとりのルームメートは日本人のすこし年下の子だったのですが、寮での生活が始まって4ヶ月たったある日、掃除をしていた私は彼女がいつも日記のように書き綴っているノートが机から落ちて開いたのを見てしまいました。そこには彼女が私ともう一人のルームメートのものを少しずつ盗んだ記録がしてありました。なんて人だろうと思いましたが彼女には直接言わず心の中で軽蔑しました。その日から私はそのことばかり考えるようになりました。 そんな日々を過ごしていたある日曜日、いつものように教会の礼拝に行きました。礼拝が始まると私はいつか読んだルカの福音書18章のパリサイ人と取税人の話のことを考えていました。礼拝の間中この話のことばかりが思い出され、ある瞬間私はこの数週間あのルームメートのことを心の中で裁き続けていたことに気がつきました。クリスチャンである私は自分を彼女よりも正しい人間であるかのように考え、ひとり優越感にひたっていたのです。それまで自分が罪人である自覚など全くなかったのですが、自分がとても醜い心を持っていることが分かり、このような自分が嫌でたまらなくなりました。 すでにその4ヶ月前にイエス様を受け入れますと言って洗礼まで受けていた私ですが、あまりにも簡単にイエス様を受け入れた感があったので自分はあの時本当には救われたのかという疑いの念に襲われることがあった私でしたが、その日初めて、イエス様こんな私を赦してくださいと祈りました。するとそれまでに体験したことがないくらい心臓の辺が熱くなり涙がぽろぽろ流れて止まらなくなりました。礼拝堂の十字架が目に入り、イエス様が私の罪を背負ってあの十字架に架かって死んでくださったのだと分かると感謝の気持ちでいっぱいになりました。それから私はあのルームメートのために祈る者と変えられました。 |