V. 私の人生を支配しておられるお方を知って - モラレス・アーウィン - 2004年8月

 私はフィリピンという国に生まれました。大抵のフィリピンの人は名ばかりのクリスチャンです。毎週日曜日に教会へ行きますが、神様がなさったことについて、あまりよく理解していません。そして、フィリピンのカルト宗教に入っていた父と結婚した母も同様でした。 

 私が子供の時、父は自分の宗教を私に教え込み、キリストの十字架を理由にクリスチャンの神は死んだ神だとキリスト教を馬鹿にしていました。私はキリストは復活したということを教わりませんでした。 

 ところが皮肉にも、小学校に入学する時に、母は私を小学校から高等学校までミッションスクールに入れ、そこで私は聖書とイエスキリスト、キリストの死と復活について学びました。ですから結局クリスチャンの神は死んでいないということを学びました。しかし、私はなぜキリストが死なれ、よみがえられたのかをよく理解していませんでした。 

 私にとっては、キリストが死なれた理由は、私が神の愛に気づき、よい人間になるようにいっそう努力し、神様の好意を得て天国に入れてもらうことが出来るようにすることだと思っていました。そして私はそのとおりにしました。私はいい人間になれば天国に入れてもらえると思って一生懸命頑張りました。しなければいけないことと、してはいけないことのリストを持っていました。従うようにと教えられていた十戒を守る努力をし、毎週日曜日に教会に行きました。日曜日に教会へ行くのはたやすいことでしたが、父と母に従うのは一番難しいことでした。他人を怒ったり見下したりしないようにしました。うそをつかないようにもしました。そして努力して失敗してしまうと、神父のところへ行って罪を告白しました。そして犯した罪に応じて主の祈りを2回から10回祈るように命じられました。私は自分がクリスチャンだと思っており、死んだら必ず天国へ行けるようにしたいと思っていました。私にとってその唯一の方法は良い人間になるということでしたが、一生懸命頑張れば頑張るほど、いっそう難しくなってくるのでした。良い人間になることは、人の生まれつきの性質とは正反対のことです。 

 私が大学に入学した頃、母はプロテスタントのクリスチャンになりました。そして母は私もプロテスタントのクリスチャンになるように言いました。私は母の言っている事がよく分からなかったので無視したり、あまり説得がしつこいときは怒ったりしました。同じ頃、私の尊敬する友人が、よい人間になることは、神様にとって十分ではない理由を教えてくれました。私はもし完璧な人生が可能だったとして、たとえそのような人生を歩んだとしても、天国へは入れないということを後に知りました。私が子供の時に理解できなかったこと、つまりなぜイエスキリストが死ななければいけなかったのかをその友達が説明してくれました。

 私は神から離れて生まれ、イエス・キリストによる救い無しには永遠に神から引き離されて死ぬ運命にありました。残念なことに、私は自分では自分を救うことは出来ません。しかし、幸いなことに、このイエス・キリストが2000年前に私の代わりに完璧な人生を送り、そしてまた私の代わりに苦しみを受けて死んで下さったのです。私はただ、イエス・キリストが私を救って下さったことを信頼すればいいだけなのです。 

 私が子供の時、聖書にある事実に納得していましたが、イエス・キリストを信じていませんでした。私はイエスが死んだことを信じていましたが、彼の死によって私が救われるということを信じていませんでした。だから私は自分を救うために努力しようとしていたのです。しかし、今私はイエスについての歴史的な事実だけでなく、イエスが完璧な人生を私のために生き、私のために死んでくださったから、神が私を受け入れて、私が死んだら天国へ迎えて下さるということを信じています。 

 聖書はそのことを次のように書いています: 

人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による。(ローマ人への手紙3:28) 
人は律法の行ないによっては義と認められず、ただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。(ガラテヤ人への手紙2:16) 


 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2:8-10) 

 1987年の12月ごろ私はイエス・キリストを救い主として受け入れ、私の人生を支配して下さるようにゆだねました。 

 イエス・キリストを信頼するようになってからは、自分に平安が与えられ、そして神様が私を愛していることを確信しました。私自身かその他の人が何をしようとも、神様はいつも私を受け入れて下さると確信しました。まだ良い人間になるように頑張る必要がありますが、それは別の理由を付けてです。それは神様に受け入れてもらうためではなく、神様が私を既にイエス・キリストのように正しい人と認めたから、イエス・キリストのように考えたり、行動したりするのがふさわしいからです。私にはまだ罪を犯す傾向があり、特に神様の力に頼らない時です。但し、私には新しい動機が与えられました。神様が私のためにして下さったことを知っているからです。