「あなたは神様に何を一番感謝していますか?」と聞かれた時に、私は迷い無く「私をクリスチャンホームに生まれさせて下さった事です。」と答えます。クリスチャンの数のとても少ない日本で、大人になるまでにキリスト教と出会う確率は、そんなに多い事だとは思わないからです。教会にいらしている皆さんも、本当に奇遇な出会いから教会にいらっしゃる様になった、という方が多いのではないでしょうか?もしそうだとしたら、クリスチャンホームに生まれた事は、一番の恵みだと思っています。 そして、私の父は牧師をしていました。ですから本当に神様と出会うための戸口の前に、生まれさせて頂いた様なものなのだと思っています。もちろん、クリスチャンホームの子や、牧師の子が必ず救われるわけではない という事も知っています。私の尊敬するある牧師先生は、お坊さんの息子としてお生まれになりました。その先生がキリスト教と出会い、救いへと導かれ、家族の反対を押し切って洗礼をお受けになるまでの道のりに比べれば、私は何と簡単に神様に出会えたのかと、感謝なのです。 そんな風に恵まれた環境で、二人の兄と一人の弟の間で育ったのですが、そんな私でも僅かながら"迫害の子供版"というものを経験することになりました。私が生まれたのは広島だったのですが、小学校2年生になる時、父が茨城で牧師をする事になり引っ越しました。広島から茨城への引っ越しは、外国ではないので日本語は通じますが、色々な方言が分からなかったり、地域の習慣や人間性の違いに悩み、そして家が"教会"という事でいじめられました。元々静かな子供だったのですが、いじめられるのが怖くて、 あまり目立たない様に更に気をつけるようになりました。 子供の頃の私の一番の願いは、"幼なじみが欲しい"という事でした。みんな"何処の幼稚園出身"という風にグループに分かれていて、一人だけのけ者にされているのがひどく寂しかったのです。自分だけ違う所から来て違う宗教という事でのけ者になっている。そんな時に聞く流行の歌の、"幼なじみ"という言葉の何と辛かったこと。幼なじみを題材にした本を、何れだけ羨ましい思いで読んだ事でしょうか。 そんな私が中学生になったある日の事。教室で数人が話をしていたのを側で聞いていると、お坊さんの息子の友達が、「坊主だって酒は飲むし、人の悪口言うし、別に立派じゃネェよなぁ。なぁ、松山(私の旧姓です)、お前んとこのおやじだってそうだろ。牧師だって同じだよな。」と、急に言われて返事に困りました。「うん…、多分嘘つかないし、お酒も飲んでないよ…。」と答えると、「お前が知らないだけで、隠れてやってんだよ。」と笑うのです。 それから私は親を見る目が変わりました。"教会で語っている事と違う事をしてはいないか。夜こっそりお酒を飲んでいないか。"等、細心の注意を払って親を観察したのです。けれども、それらの思いは直ぐに全て取り払われました。両親は誰の悪口も言わず、子供にも嘘はつかず、とても真実に生きているのです。24時間一緒にいる家族が分からないのだから、絶対うちの両親は大丈夫だと思いました。 そうすると次ぎに来る悩みは「本当にこれが正しい宗教なのだろうか。」ということです。その頃の両親に一日のお休みもなく、家族の休みは夏のバイブルキャンプだけ。暴力団の親分に怒鳴り込まれたり、夜中に電話がかかって来て飛び出す事しょっちゅう。いつでもネクタイをして、時計をはめ、何にでもすぐ対応出来る様に準備して、神様のために働いていた父と、それを支える母。これがもし、死んでみたら違っていた。地獄に落とされ、「お前の信じてたのは違ってたんだ。」とサタンにあざけられたらどうしよう、と本当に真剣に悩みました。 「これは私が真実を突き止めてあげなければならない。もし間違っていたら、私が親を説得しなくちゃいけない。親が牧師だからキリスト教を選ぶのは、絶対に間違ってる。」と使命感に燃えたのです。さぁ、それから必死に真実探しが始まりました。…と言っても中学生。そんなにたいした事は出来ませんでしたが、でも家族の命がかかっているので私は真剣でした。 まず市内にある有名なお寺に行き、書いてあるものを読んで回りました。修学旅行が京都・奈良だったので、誰よりも真面目にお坊さん、神主さん達の話を聞きました。(まだどの宗教が正しいか分からなかったので、お話を聞く時足を崩して"正座はしない"という抵抗をこっそりしながらではありましたが。) 色々なパンフレットを意欲的に貰って歩き、読み比べると、"父や母を敬え"、"盗んではならない"、"嘘をついてはならない"、"人を殺してはならない"等、聖書に書いてある道徳的な教えは何れにもあって同じでした。けれども聖書にある『私が世界を作った』『私があなたがたの神である』という様な言葉はありませんでした。 そうなると次は、学校で教えている進化論が正しいか、『私が創った』という神の言葉が正しいか。そして『世界を創った』という神は本当に存在するのか、という所に問題は移ったわけです。 そんな悩みを抱えて参加したバイブルキャンプで、私ははっきりと神様に出会いました。私は今まで真面目に割合良い子で生きて来たつもりでしたが、そんなレベルの話ではなく、私も罪人である事を知らされ、沢山の涙を 流して悔い改めました。"この世界を創った神様は本当にいるのだ。私を愛して下さっているのだ。両親は間違っていなかったのだ"と分かり、本当に嬉しい時でした。 "自分が弱いから神にすがる"とか、"道徳的に立派だからクリスチャンになりたい"というのではなく、私は科学的にも、物理的にも何処から探求して行っても証明出来る神を見つけたかったのです。そして見つけました。 振り返ると、その中学3年のバイブルキャンプで一緒に救われた友人が、私の"幼なじみ"になってくれています。小学、中学時代の親友の居ない私でも、この友達とは中学の頃の思い出話ができます。そればかりでなく、彼女は本当に心を割って神様の事を話し合える生涯の友となってくれたのです。その友が居る事で、私の心に開いていた"幼なじみが欲しい"という穴が見事に塞がれました。その時(中学3年の時)には分かりませんでしたが、年を重ねた今、神様の御計画の素晴らしさに感動しています。 バイブルキャンプの後、神様の存在を認め信じていましたが、「まだ聖書を全部読んでないし、色々聞かれても答えられなくて困るから、洗礼を受けるなんてまだまだ…。」と心の中で思っていました。その年のクリスマス、ある人の証を聞きました。「自分はこの間神様を信じれると思い、直ぐに洗礼を受けました。まだ何も分からないけど、これから色々勉強をしてゆこうと思います。」その後、牧師先生はおっしゃいました。「立派になってから洗礼を受けようと言っていたら、洗礼を受けられる人は一人もいないでしょう。洗礼はみんなの前で"今日から神様を信じます"という宣言ですから、立派になるのを待たなくて良いのです。」 この事を聞き、「何も知らない自分でも良いのだ」と安心して洗礼を受ける決心をしました。そして今でも自然の素晴らしさを見たり、実際に自分で子供を産む体験をした時に、「これが偶然に出来た進化のはずは無い。」と神様の創造の業に感動し、「これが真実なのだ。」と確信しながら生活しています。沢山の宗教の中から自分で選び抜いたつもりでしたが、こうして振り返る時、神様に選ばれて、鈍感な私は教会の中に生まれさせて頂いたと思うのです。とても駆け足でしたがこれが私の洗礼を受けるまでのいきさつでした。"何を神様に感謝するか"という所から書かせて頂きました。 |