二月二十日の入会式をもって会員となりました。家族は日系三世の主人と信太郎(四歳)、謙次郎(二歳)の四人です。主人は一月に英語部で会員となり、礼拝も英語部の方に出席しています。信太郎は日本語部と英語部のサンデースクールに喜んで出席し、彼なりにイエス様について学んでいます。私も会員になる前から、みつばさの会、英語クラス、礼拝前の聖書研究会に出席させて頂き、他の会員の方々とのお交わりや学びの機会を与えられてきました。リーダーの方々や奉仕して下さっている方に感謝致します。 私とイエス様の出会いは、主人との出会いがきっかけでした。友人の紹介で出会ったのですが、出会って間もない頃、私の車でデートに行く途中、運転していた私に「君の信じている神様はこれか。」とバックミラーにぶらさげてあった交通安全のお守りを指さして言うのです。信じているかと聞かれても、実際、よく人の車にぶつけたり、ぶつけられたり、駐車しておいた車がトーイングされていたり、車が盗まれていたりと友達から、本が一冊書けるんじゃないと言われるほどに車に関していろいろなことがあったのです。折角、日本からのお土産でもらったことだし、ぶらさげておいたのです。本当に心から信じていた訳ではありませんが、このお守りが私を事故やトラブルから守ってくれたらと多いに期待はしていました。出会った当時既に救われていた主人は、結婚するなら、クリスチャンの人と決めていたようで、私が何の気もなしにぶら下げていたおまもりが気になった訳です。 主人は次のデートの時に、僕はクリスチャンの人としか結婚するつもりはなく、このまま交際を続けていてもその先に進めないから、もう会わないほうがいいと私に告げました。それまでに何回か電話で話したり、会ったりして、とても気が合う人だと感じていたし、結婚というものへの憧れもあったので、そう言われてショックでした。とにかくさよならをするのは避けたいという一心から、キリスト教という宗教がどんな宗教で何を信じているか漠然としか知らない。だから、信じることができるかどうか、とりあえず教会へ行くと言いました。事実キリストについては高校の倫理社会の時間に学んだけれども、その教えについてはよくわからない、ピンとこなかったという記憶しかなく、教会もアメリカに来たばかりの頃、アメリカに来たんだから一度は行っておかなくては、と観光地めぐりの一つかのように、一度教会に連れていってもらったことがあるだけでした。 教会は、以前、補習校の仕事の関係で、何回かお目にかかったことがあった上野先生が牧師をしていらっしゃるぶどうの木国際教会に行くことにしました。上野先生はそれまでに礼拝のメッセージのテープや集会の案内を送って来て下さっていたので、迷うことなく決めることができましたが、上野先生からの郵便物が届くたびに、こんな必要のない物を送料までかけて送って下さらなくてもいいのにと思っていました。教会に足を運ぶ以前にメッセージのテープを聴くことはありませんでしたが、確かにそこに主のご計画が働いていたと今、確信することができます。後になって、上野先生にテープを送って下さった理由を尋ねた所、私に送るように示されたとおっしゃっていました。 さて、教会に行くと決めたのですが、礼拝に出席するために朝早く起きることはとても苦痛で、今週は行ったから、来週はお休みしようなどと自分で勝手に出席する日を決めていました。礼拝が終わると、他の信徒の人と交わることもなくそそくさと帰っていましたし、唯一教会へ行く励みとなっていたのは、礼拝前に教会の近くのドーナッツ屋でコーヒーを飲みながら、マフィンを食べることでした。ところが、教会へ行かなくてはという気持ちから、教会へ行きたいという気持ちに徐々に変えられていき、出席率も50%から90%にアップしていきました。 クリスチャンにならなければ結婚できないから何とか信じたいという思いが強く、なかなかイエス様を受け入れることができませんでした。聖書が教えていることはそれまで私が培ってきた価値観と180度違うことに戸惑いましたし、進化論ではなくて、創造論を信じることがまずできませんでした。牧師にその疑問を投げかけると、胸のポケットに入っていたペンを取り出し、「このペンは部品の一つ一つが突然空中にぽっぽと現われ、ヒャッ!というとそれぞれがさっさっさと集まってできたといったら、誰も信じないでしょ。でも、進化論を信じるということはそれを信じることと変わりがないんだよ。このペンは一つ一つの部品がそれぞれ目的を持って作られ、できあがっているんでしょ。」と話して下さいました。そして、私が救われるきっかけとなったのは「死」についてでした。 「死んだら、どうなると思う。」という牧師の質問に、「私が死んだら、何もかもなくなってそれでおしまい。それでいいです。」と答えました。「でも、死んで何もなくなってしまえばいいけど、誰も死後の世界から帰って来た人はいない。聖書には死後に裁きがあると書いてあるんだよ。」(ヘブル9:27)と聞かされたことでした。これは私の「死」に対する考えをもう一度考え直すきっかけとなりました。幼い頃から「死」に対する恐怖心を持っていたので、今では、イエス・キリストを信じるこの信仰によって永遠の命が与えられていることに感謝し、大きな平安が与えられています。それでも、イエス・キリストを救い主としてすぐに信じることはできませんでした。頭ではイエス・キリストの十字架の死を理解できたのですが、なかなか心で受け入れることができなかったのです。 初めは主を信じる信仰と結婚とを結びつけて考えていましたが、次第に別々の問題として捉える必要があることに気がつかされました。そして、聖書の学びやメッセージを通じて、主を心から信じたいという思いが与えられ、1998年12月、主の恵みによってイエス様を主と告白しました。教会へ通い始めて二年が過ぎていましたが、その間、主人は私が教会へ行かないといった日があっても責めることなく一人ででかけていき、祈り続けてくれました。1999年9月5日に結婚式を挙げ、主人はまだ洗礼をうけていませんでしたので、同じ日に二人揃って洗礼を受けました。クリスチャンが人口のわずか1%という日本に生まれたにも関わらず、私が救われたというのは、主の大きな大きな恵みと憐みであり、主のみわざが働いていたと改めて感じています。 主にあって変えられたこと、こんな私を愛し、豊かな恵みを注いで下さる主が共に歩んで下さっていることに感謝します。このガーデナバプテスト教会も祈りの中で与えられました。主が導いてくださったと確信しています。この教会で、主が私に望んでおられる働きができますようにお祈り下さい。さらに学びが深められ、多くの方々とお交わりができることを主にあって期待しております。どうぞ、家族共々よろしくお願いします。 |