I. 小さな家の裏庭から - 阿部麗 - 2006年1月

 三人の子供の育児の合間を縫って、庭をいじるのが好きです。庭いじりをすると心が休まりますし、未熟な私にいろいろなことを自然が教えてくれるからです。例えば、肥料をやった時の花の勢い、成長の著しい違いを目の当たりにして、「子供にもたくさんの肥料(食べ物に限らず多くの経験、体験の場)を与えてやれば、その後の成長に大きくかかわるのだ」と諭されたり。大好きなミョウガを一番日の当たる良い場所に植えてやったのに、毎年出来るのはほんの数個。先輩のお話を聞くと「半日陰が良いのよ」とのこと。なるほど。良いと思って太陽の光をたくさん当ててやったのに、みんな同じじゃないんだ・・・。「子供の個性を大事に」とはこんなことなのかな。その子に合ったものを適量に・・・と。 

 先日数種類あるバラの中から、一つのバラを抜きました。そのバラは持つところもないくらいトゲで身を包み、お世辞にもあまり綺麗な花を咲かせてくれなかったのです。三年間見守り辛抱の末の決断でしたが、そのバラを抜いたことは私の心に大きな教訓を残してくれました。「良い香りを放ち綺麗な花を咲かせてくれるなら、いくらかのトゲも我慢するものを。人も同じ。ちょっとした戒めの言葉なら辛抱して聞き、その人の歩み方が素晴らしければ憧れたりするけど、トゲだらけではいけないのだなあ」と、自分の姿を正される思いです。  

 私が自然の中から教えられることの中で一番大きなことは、神様の存在。さまざまな色、形、香りの花を見るたび「これが偶然に出来たとは信じられない」と思うのです。つまり、細胞が分裂したりくっついたりして偶然に進化したものではなく、「人間の能力を遥かに超えた方が計画を持って創られた」としか思えないのです。花に限らず自然の何に於いてもです。 

 子供の時に学校で習う「進化論」か、教会で習う「創造論」かと悩んでいた時、科学のビデオを見てその疑問はすべてぬぐい去られました。人間や動物に組み込まれた機能の素晴らしさを知った時「これは偶然ではない」というのが揺るがすことの出来ない答えでした。もし神が人間と同じレベルなら、「創造」は無理だったでしょう。人間は組み合わせたり、改良したりすることは得意ですが、まったく何もないところから物をつくることは出来ないからです。こんなに知恵を与えられた人間が出来ないのに、単なる偶然ですべてが出来上がったなんてもってのほか。「バラバラにしたコンピューターを箱に入れ、何億年も揺さぶり続けても決して偶然に組み立てなれないことと同じ」と言う学者がいました。なるほど、大自然のどれを研究していっても、人間の力、想像を遥かに超えた方の存在を認めない訳にはいかないのです。 

 神の存在さえも知らせてくれる私の家の小さな裏庭。耳をすませて、心をすませて庭をいじるのがやっぱり私は大好きです。 

(羅府新報信仰欄11/18/2005掲載)