V. 証し - 尾関祐子 - 2007年7月

※尾関祐子姉は高槻福音自由教会から遣わされている宣教師として現在JCFN(Japanese Christian Fellowship Network)で、日本からの留学生の伝道のためご奉仕なさっています。6月10日の伝道礼拝にて、救いの導きを証ししてくださいました。

 この世界を作られた、唯一の神である主を賛美します。 

 私が聖書の神様と出会ったのは、私が小学校にあがるかあがらないかの頃でした。その頃私の母が教会に通いだし、イエス・キリストを自分の救い主として信じました。彼女はまだ幼かった私たち3人の子供たちに、わかりやすい子供用の聖書物語を読み聞かせ、また、私たちを教会に連れて行ってくれました。 

 神様の存在を体験として確認したのは小学校の3年生の時だったと思います。その頃私は、アメリカから来ていた宣教師の先生の開いているサンデースクールに行っていました。あるとき、教会の先生が、マルコの福音書の小冊子を私たちにくれました。「これを全部読み終わったら、今度はヨハネの福音書をプレゼントしましょう。」内容はよくわからないけれど、「何かものがもらえる。」ということに反応した私は、早速読んで、先生のところに、「読みました。」と言いに行きました。先生はヨハネの福音書の小冊子を私に渡して、「これを読み終えたら、今度は新約聖書全部をあげましょう。」と言いました。なんだか、今までのよりも立派なものをもらえるんだ、と子供なりに理解した私は、ヨハネの福音書をわからないなりにも目を通して「先生、全部読んだ。」と言いました。先生は、私に新約聖書をくれました。そして、「これを全部読んだら、新旧全部ついた聖書をあげましょう。」と言いました。 

 新約聖書は小学校の低学年の子供にとって、とても長くてなかなか読みきることが出来ませんでした。でも、新旧約両方ついた聖書は、なんだかこれをもっていると立派な大人になったような気がしたのでしょう。私は、あるとき、新約聖書を全部読まなかったのに、「先生、全部読んだよ。」とうそをついたのです。 

 先生は、新旧ついた聖書を私にくれました。私は単純にとてもうれしかったのを覚えています。そして、何が起こったでしょう。その日、教会の帰りがけに母と一緒に買い物に行ったのですが、私はそのときもっていたバックごと、聖書をなくしてしまったのです。 

 私は子供心に自分がうそをついて聖書を手に入れたことが神様にばれたのだ、ということがわかりました。神様は不正な手段で聖書を手に入れた私を喜ばれなかったのです。私はそのとき初めて、神様を恐れる心を持ちました。「私の心の中を全部見ていて、全てを知っている神様がいる。」ということをはじめて体験した時でした。

 その後、私は毎週サンデースクールに通い、聖書の話を毎週聞きながら成長していきました。中学生が終わる頃には、神様の存在も、イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかってくださった、ということも耳にタコが出来るぐらい聞いていましたので、自分はクリスチャンだ、と思っていました。   

 キャンプでは「アブラハムの生涯」を通してみことばが語られました。ある夜講師の先生が、創世記の18章の中から、ソドムとゴモラを滅ぼそうとする神様とアブラハムが会話をする箇所を取り上げました。アブラハムは自分の甥のロトを救い出すために、神様に一生懸命交渉するのです。メッセージの最後に先生が、「みなさんはロトは天国に行ったと思いますか?私は思いますよ。アブラハムがやっぱりこのときみたいに神様に頼んだんじゃないかと思うんですよ。」と言ったときに、私は本当に心が刺されました。(今思うとこのコメントは神学的にどうなんだろう?と思うのですが。) 

 自分にはアブラハムと神様のような親しい関係、何でもお願いして、そして神様がそれを聞いてくれるような関係がないことに気がついたのです。もちろん聖書を読んだことはありました。お祈りもしていました。でも、アブラハムのように他の人のことを神様に頼むほど、神様と親しくはありませんでした。その頃までに、私の母も兄もクリスチャンになっていましたから、ひょっとしたらアブラハムのように私のことを天国に入れてくれるように、神様に頼んでくれるかもしれない。でも、できれば、そうではなくて、自分が神様としっかりした関係をもって、自分こそが、アブラハムのように他の人の救いのために、神様にお願いする人になりたい、と思いました。 

 その晩、私はイエス・キリストを自分の救い主として、心に受け入れるお祈りをしました。自分と神様が親しくないのは、私たちの間に「罪」と呼ばれるものであるからであること、イエス・キリストは、十字架の死と復活を通して、私と神様との関係を回復してくださったこと、そして永遠の命を下さったことを、素直に信じて受け入れることができました。 

 「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4) 

 神様は、私の母でも兄でも、他の誰のお願いのためではない、私自身を愛している、と言ってくださったのです。 

 このときから、私は死んでもちゃんと天国に行くことができる確信が与えられました。20年経った今、その確信は深まるばかりです。あの時、自分は神さまと直接仲よくなりたい、と思ったのですが、今、私は神様とずっとずっと親しくなりました。神様は私の声を聞いてくれます。また、神様の思いを私に教えてくださいます。すべてを支配している神様が私を気にかけ、愛してくださっていることを実感する毎日です。ありがとうございました。