II. 受洗を迎えて - 田中明人 - 2007年4月

 新年のこの日、小笠原先生を通じて洗礼を受ける特権をお与えくださった主に心より感謝します。 
  

 私は普通のサラリーマンであります。思い返せば、私の仕事の進め方の根底には誰かに良く見られたいとの思いがいつもあった様に思います。市場として、業界として、顧客としてのニーズに応えるという事にもっとも敏感でなければならないにも関わらず、自分がこうしたら誰々がどう言うだろうと、いつも先読みをしていた自分に気がつきました。同僚の中には色んな事情があり、そんな時も、こんな事では組織として存在を疑われると、いつも回りの目を気にしていた様に思います。 

 そういう事に全く気が付かなかった訳では無く、少し気がついていたからでしょう。1997年 日本武道館にて行われたリバイバルミッションにて信仰告白をし、毎月の聖餐式にてパンとぶどう酒を授かりながらも未だに洗礼を受けるには至っていませんでした。 

 現在、私は大阪にて勤務し、東京にいる家族と別れての生活となっております。「それはお気の毒に」と言われそうですが、実はそうでは無い事に気づかされました。 

 長女の佐知子だけを東京に残し海外に赴任せざるを得なかった事、その駐在も帰国が早まり、家族は東京に戻ることになったが、貸していた自宅の契約が残っており自宅には入れないこと、現地で大学入学した次女の淑恵は日本の大学への編入条件の教養課程をまだ修了していなかった事、私は東京には戻れない事等、問題ばかりで「何と主は酷なことをなさるのか。」と考えたこともありました。しかし、そうではなかったのです。母を亡くし大阪で一人で暮らしていた父の元に、他の事をさておいても私を帰して下さったのは、主が決められた事。必要を優先された主の業と気が付いたのです。そう理解が出来た時に、自宅の問題、淑恵の大学の事等必要なものは、やはり主が最後には全て準備し、間に合う様に与えてくださいました。 

 本当に感謝です。家族も私が離れて大阪で父と暮らしている事を良く理解してくれています。しょっちゅう東京に戻ることが出来ませんが、多感な時期にいます長男、常元も道を外れることなく来れているのも、主のお導きのお陰と思っています。主が十字架に掛かって下さり我らの罪を帳消しにされただけでなく、父と暮らせる事を最優先として、あの時の私にくださったのです。この事実にふさわしいみ言葉を読みます。第一ペテロ 5章7節です。 

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 

 現在、私の職場にはメンタル面で弱っている者がいます。一人ではありません。現在の社会現象にもなっている程、弱っている者が増えています。どの様に扱い、どうしてやる事が彼らの治癒、職場復帰を早めるのか営業現場でも判らない事が多くあります。会社は専門のメンタル医師、カウンセラーと契約をしていますが、職場でのハーモニー、コミュニケーションが彼らへの一番の薬となるはずです。 

 私は今日をもって主に身を委ねる事が出来ましたので、他人からどう見られるか?は心配せず、これからは、同僚達の事を考えてやりたいと思います。 

 今日の洗礼まで我慢強く導いて下さった小笠原先生、黎子先生に、また、暖かく見守って下さった兄弟、姉妹、それと家族の皆に感謝をし、証しとさせて頂きます。どうも有り難うございました。