早いもので、私が日語部のサンデースクールをお手伝いするようになって11年、教師として奉仕するようになって9年になりますが、今回初の試みとして、「サンデースクールに集う子ども達のお母さんが、共に子ども達のためにとりなしの祈りをする」ことを呼びかけ、3月8日に行うことができました。 『子どもを守る30の祈り』(ストーミー・オマーティアン著)という、とりなしの祈りの本を7年前に手にしたときから、その本が勧めているように母親が集まって共に子どものとりなしの祈り会が持てたらすばらしいだろうなあ、と思いつつ、日々の慌しさを言い訳に言い出せずにいました。また、私の子ども達は比較的穏やかで、特に問題を起こすこともなく、健康も与えられていたので、祈りの必要性をそこまで感じていなかったこともひとつの理由だったと思います。「こうした本を参考に、自分で個人的に祈っていればいい。」と思っていました。 しかし自分の子どもが思春期に入るに従い、親としての自信が次々と失われ始めました。自分が自分で信用できなくなり、細かい一切のことについて神様の判断を仰がないとサタンに捕らえられてしまうような気がして、ひたすら祈るようになりました。そして、一人で祈るに飽き足らなくなり、土曜日の朝の「祈りに励む会」に足を運びました。 そこで与えられた聖霊の満たしが、一週間を乗り切る力ととなっていきました。そして以前と比べられないほど祈る自分に変えられたとき、主はすばらしい祝福を与えてくださったのです。 それは別に「願っていたことが次々とかなった」訳ではありません。それは、箴言3章5,6節にある、「心を尽くして主により頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」ということが、どういうことなのか実感できるようになったことでした。たとえ、自分にとって嫌でたまらないことが起こったとしても、このことから自分は何を学ばなければならないのか、一見最悪でしかないように思えることも、神様のご計画の中で起こったのだったら祝福に変わるはずだという確信を持てるようになりました。つまりは、私が何年間も子ども達に話していたにも関わらず、自分自身ができていなかった「イエス様とお話すること」ができるようになったということです。 私は自分に与えられたこの祝福を、サンデースクールの若いお母さん達とも是非分かち合いたい気持ちでいっぱいになりました。私が「祈りに励む会」で頂いた祝福をそこで留めてはならない、溢れて外に流していくことが主の御心であるように感じて、サンデースクールの教師会で提案し、若いお母さん達にとってどんな形がふさわしいか、共に考えました。 当日の3月8日は礼拝後、上村姉にベビーシッターをお願いし、すぐにサンデースクールの教室に子ども達を集め、食事をさせ、ビデオを鑑賞させている間に、隣の部屋にお母さん達は集まりました。子ども達が歌っているプレイズを賛美し、祈りの本の抜粋を読み、祈りの課題をシェアーして共に祈り合いました。ある姉妹が「自分の子どものことだけでなく、他の子ども達のことも祈れる自分になりたい」とおっしゃってくださった一言が本当に嬉しかったです。 子どもが小さい時ほど、親は自分の時間を子どもに捧げます。子育てに悪戦苦闘しつつも、子どもを愛さずにはいられない、愛する者に変えられます。にも関わらず、この時期は子どものために祈れない時が多いような気もします。ゆっくり祈っていようものなら、目をつぶっている間に子どもが何をしだすか分からないし、夜子どもがぐっすり眠ってから祈ろうと思っても、気がついたら自分の方が先に本を読み聞かせながら寝ていたこともあります。 でも、子どもの成長に親の祈りは必要不可欠です。どんなに言葉を尽くして教師が子どもの魂の救いを祈ったとしても、親が心を込めて祈る祈りは、たとえそれが短かったとしても、はるかに力あるものであり、神様の望んでおられることだと確信します。 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5:7) |