III. 人間をとる漁師にしよう - 日本バプテスト同盟理事 大矢和男師 - 2009年6月

 今から45年前、私は十九歳で、大学受験に失敗して浪人生活二年目だった時のことです。進路に悩み、人生を考えて教会に足を運んだのが、私のクリスチャン生活の出発となりました。 

 マルコによる福音書では、主イエス様は、ガリラヤで宣教の第一声を上げられて、その 直後に四人の漁師を弟子にするところから宣教生活を始めておられます。 

一、 網を打っているのをご覧になるイエス様 

 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった」(16節)とあります。主イエスがご覧になったのは、ただ、自分の知恵と力を駆使して、日々の糧を得ることに夢中になっている人々の姿でした。生きていくことに必死になり、主イエスがそばを歩いていることに気づかない人々の姿、主イエスが近づいていることに目も向けず、網の手入れに夢中になっている人々の姿でした。「網」というのは、私たちの生きる手段です。  私も当時、より良く生きる手段は何かと悩み、苦しみ求め続けている者であったと思い返し、この漁師たちと自らを重ね合わせています。 

二、 声をおかけになるイエス様 

 そのような者たちに、主イエス様は声をおかけになるのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。最初に声をかけられたのは、主イエス様でした。当時、主イエス様に声をかける人々はいました。主イエス様を求めて、叫び声を上げる人が多くいたのです。しかしこの時、ガリラヤ湖の漁師たちが主イエス様を必要としていたのではありません。イエス様に声をかけるどころか、目を向けることすらなく、湖に向かって網を打っていたのです。しかし、主イエス様は、そのようなものたちを呼び求められたのです。  私自身が、求め尋ねて教会の門を叩いたかのように思っていたのが、実は、主イエス様がまず私を見られ、声をかけてくださったのです。その主の呼びかけから、神の業が始まっていたのでした。 

三、 人間をとる漁師にしよう 

 主イエス様は、この時、「人間をとる漁師にしよう」(17節)と言われています。彼らは、そもそも魚をとる漁師でした。その日を生きるための魚を獲るためだけに網を打ち続けていた人でした。しかし、その彼らの日常のただ中で、主の声を聞くのです。そして、彼らは「人間をとる」漁師へと召されるのです。  「人間をとる」と言うのは、言い換えれば、人々を主イエス様の下に導くものとなるということです。主の後に従うことによって、自分が招かれたように、人々を主のもとに招くということです。それは、この世で始めてくださった神の救いを。その歩みを通して他の人々に証しをする歩みをなすということです。 

 十九歳のとき、私に声を掛けてくださった主イエス様は、あなたをも見ておられ、声を掛け、招いておられるのです。